熊野古道には7つの道があると伝わっています。その中でも、大阪の道は紀伊路と中辺路へと続く道で、院政時代に上皇や女院たちが、もっともよく使った古道です。
KIGA熊野高野国際語り部の会では、熊野古道大阪の道を歩いています。11月5日、和泉佐野市の長滝駅から泉南市の和泉砂川まで、KIGAのメンバー11名が歩きました。
この日も青い空がひろがり、絶好のウオーク日和でした。
長滝駅を8時にスタートし北へ。約300mほど歩き、まずは蟻通神社に参拝しました。
蟻通神社の拝殿。
狛犬、ン像。
狛犬、ア像。
蟻通神社から安松南へ向かい、安松南バス停から熊野街道を、大阪方面に戻り、蟻通神社の旧社地に向かいました。途中「日根神社御旅所」の石標があります。
旧家が多く残る熊野街道です。
路地にホトトギスの花。
ルリマツリの花
道標があります。「右水間寺 左大阪道」と刻まれています。
関西空港への自動車道の手前の路地を右折、交差点に「蟻通神社跡」とかかれた大きな石碑を見つけました。
蟻通神社旧社地の説明板があります。長滝駅から約2km。
旧社地から再び熊野街道へもどり南へ。街道沿いの旧家。
安松南から熊野街道を南へ歩きましょう。大きな紅葉樹が目につきました。
南の池公園です。ここでしばしトイレ休憩しました。コンクリート道は疲れますね。
公園にモチノキの赤い実がたわわに実っています。
ふたたび安松南の交差点。
数百メートル歩くと、右手に小学校の建物が見えてきました。
市立長岡中学校です。
中学校の手前の路地に「八丁畷地蔵」があります。
さらに熊野街道を南に向かいましょう。府道64号線の表示があります。
長岡公民館、交番を左に見ながら歩くと、右手に池。「道池」です。反対側に樫ノ池があります。
鴨が数羽。気持ちよさそうに泳いでいました。
塙 団右衛門(ばんだんえもん)の墓(五輪塔)があります。安松南から約1km。
塙 団右衛門
慶長20年(1615),豊臣方と徳川方が争った大阪夏の陣の、樫井川の合戦で討死した塙 団右衛門の五輪塔です。
団右衛門は尾張国羽栗の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげて名を知られたが、関ヶ原の戦い以降は浪人して僧となっていました。
大阪冬の陣(1614)が起きると豊臣方となり、大阪城に入城。夏の陣が起きると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晃の軍とたたかうために泉州に進みました。
4月29日早朝、団右衛門は熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入。安松、岡本、樫井で激戦が展開されたが、大阪方が破れ、団右衛門がこの地で討ち死にしました。48歳であったという。
さらに熊野街道を南に向かいます。白い立派な塀が続いています。
玄関も立派です。
国指定文化財の奥家住宅です。
説明板があります。
道路右側の泉モータースの工場の敷地から続く民家の庭に入らせていただきました。(一応、ご挨拶して)
庭の中に籾井王子跡の碑があります。
井戸は往時の遺跡だそうです。
さらに街道を南に歩きます。
見上げれば花。
皇帝ダリアです。青い空に映えています。
道路右手に宝篋印塔があります。淡輪六郎兵衛(たんのわろくろべえ)の宝篋印塔です。
淡輪六郎兵衛 慶長20年(1615)、大阪夏の陣が起こり、豊臣方と徳川方が最初に激突したのが樫井合戦であった。この時、淡輪六郎兵衛は豊臣方の武将として、この地で討死する。
淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局(こごうのつぼね)で、その子のお菊は紀伊国の山口家に嫁ぎ、夫とともに豊臣方として戦う。
豊臣方と徳川方の決戦が始まり、塙 団右衛門とともに熊野街道を南下。慶長20年4月早朝、紀州の浅野長晃の軍と戦い、乱戦の中で討ち死にした。
さらに南へ歩きます。右手にお寺があります。
浄土真宗 正方寺です。
大正大橋につきました。前の狭い道が熊野街道です。
ゼラニウムエジプトの花
お寺ではありません。民家ですが、立派なご門ですね。
日枝神社にやってきました。安松南から約2km。
境内に牛神さん。泉南地方の各地に牛神さんが祀られています。七夕信仰と関わりが深いそうです。
若宮神社。この日は若宮公園でランチタイムとしました。
樫井川の明治大橋につきました。橋のそばに樫井古戦場の碑があります。
この日の参加者11名。記念碑の前で集合写真の撮影をしました。
大阪夏の陣と樫井合戦の様子を現した石板が建っています。
ここは明治大橋です。
そばに明治小橋と刻まれた石板が倒れています。
明治小橋から新屋川を渡って西に向かいます。
道路右手の森の中に鳥居があります。